「禅と書」
喫茶子をめぐる対談 ウィリアム・リード×古川賢周老大師

”コラム:喫茶去に至る”
合同会社和の杜代表

西島の笠井伸二さんが漉いた大判の和紙に、どんな言葉を書くか思案していた。
そこに「喫茶去」という禅語が目に留まった。
これは座りが良さそうだ。紙、筆どちらのサイズにもちょうどよい。
紙の質感にも合うだろう。


―趙州喫茶去 引用―
師問二新到。上座曾到此間否。
云不曾到。
師云。
「喫茶去」
又問。那一人曾到此間否。
云曾到。
師云。
「喫茶去」
院主問。
和尚不曾到教伊喫茶去即且置。
曾到為什麼教伊喫茶去。
師云院主。
院主應諾。
師云。
「喫茶去」

市井の凡人は下記のように解釈してみた。

~至る、至らざる、無~

修行に初めて来た僧も、何度か来た僧も、長く務める僧であっても終わりに至ることが無い。終わったと思っても終わりではない。道は変遷し続く。寄せては返す波に時に乗り、時に逆らい、そして波は止むことはない。

たとえオリンピックで金メダルを取ったとしても、それは「至る」ではない。参加者との横の比較で金メダルを獲得したに過ぎず、自分自身における縦の比較ではまだまだ「至らざる」とも言える。

とはいえ、金メダルは取ったから。

 喫茶去。

 まあお茶でも飲んで次の一歩を始めましょう。

オリンピックで四度頂点に立った伊調馨さんはまだ現役を続けるという。

まさに喫茶去。

昨年、境内にて喫茶去を書くイベントを行った際に、古川老師が行った恵林寺講座、禅語の解説で一番に選んだテーマが「喫茶去」であったと知った。

従前に打ち合わせもせずに、書に「喫茶去」を選んだのは必然的偶然だなあと遠くに視線が行った。英単語では‘serendipity’ ‘synchronicity’がそんな意味である。

説明しようがない偶然に出会うことがある。

広く開かれた心を持っている人には、ほんのり幸せな偶然がたびたび訪れるのではないだろうか。そのただの偶然は時として得難い新しい価値を生み出すものなのだろう。

さて趙州(じょうしゅう)禅師(778年~897年)は唐代に生きた。

百二十年もの長き人生は、あくなき追及、終わりのない修行の精神が可能としたか。

六十歳で新たな修行の旅に出たという。

歳月にのまれずに日々を送るその姿勢は良い刺激を与えてくれる。

ちょうどこの時代、陸羽(りくう)(733年~804年)によって最古の茶書と言われる「茶経(ちゃきょう)」が書かれた。おかげで趙州禅師の時代の飲茶がどのようなものだったかを知ることができる。当時は乾燥、固形化された餅茶(せんちゃ)を粉にして煮出すお茶だったようだ。輸送を考慮した製法として餅茶状態が都合よかったとのこと。お茶は取り巻く環境によって次々と変化していく。

おかげで今日私たちはおいしいお茶が飲める。

お茶は徐福伝説の時代、すでに薬として入って来たかもしれないが、飲茶の習慣は遣隋使、または遣唐使により日本へ伝わったようだ。その後、栄西の「喫茶養生記(きっさようじょうき)」を経て、深く日本文化に浸透した。

ヨーロッパでは、東インド会社設立によりその幸せな瞬間は訪れた。

イギリスの医学博士ジョン・コークレイ・レットサムは、その歴史を「茶の博物誌」(1772年)にまとめている。偏見甚だしい記述もあるが、丁寧な解説と絵は、博物誌として一読の価値はある。

お茶に対して懐疑的な見方をする人々の間では、緑色は緑青を利用した着色などと風説が広まったことが書かれている。新しいものを受け入れるのにはそれなりの時間を要する。

また、お茶の輸入について、当初はオランダを通し日本からが主で、次第に中国に代わっていったとの記述がある。鎖国がなければイギリスの飲茶習慣は紅茶ではなく、抹茶や煎茶だったかもしれない。とかく文化も政治的な影響は避けられない。

西欧ではお茶の味と効能に焦点が当たり広まったが、日本では思想、哲学、精神性が加わって独自の発展を遂げていった。一般的に茶の湯は、珠光(じゅこう)、紹鷗(じょうおう)、利休を経て完成したといわれている。イギリス人がはじめてお茶を飲んだ時点で、既に文化芸術としてのお茶が完成していたのだ。これは世界に誇ってよいだろう。異文化圏の人々に「私たち」を伝えるのに最も良い道具が、茶の湯であることはすでに「茶の本」で岡倉天心が指し示している。

ところが現代の茶の湯は形式的、興行的で、成立期のような価値を生み出していないとの批判をたびたび目にする。それは致し方ない部分もあるだろう。

剣を枕に生き抜くことに必死な時代、茶室で膝附合わせた友が突然戦場の露と消える無常さをも栄養にして成立していくわび茶の世界を、現代に実現するのは不可能なのかもしれない。

とは言っても守るだけになった伝統はいつか忘れられてしまう。

やはり現在進行形でなければ。

さて。

禅、墨蹟(ぼくせき)、茶の湯を支える精神文化を、現代の視点で掘り下げる対談は、静を動とする端緒となるような示唆に富んだ話になるに違いない。

それでは、

喫茶去。

〈参考図書〉

「茶経(ちゃきょう)」・・茶経 全訳注(講談社)布目 潮フウ(ぬのめ ちょうふう) 著

「喫茶養生記」・・栄西 喫茶養生記(講談社)古田紹欽(ふるた しょうきん) 著

「茶の博物誌」・・茶の博物誌―茶樹と喫茶についての考察(講談社)

ジョン・コークレイ・レットサム 著  滝口明子 訳

「茶の本」・・・茶の本(岩波文庫)岡倉 覚三 著 村岡 博 訳


■日時          2月22日(土) 午後1時30分〜

■場所          恵林寺大書院

■参加費         無料※別途、拝観料(大人300円/子供100円)がかかります。

■問い合わせ TEL  055-225-1112(和の杜事務所)

E-mail info@c-s-value.jp

■主催    臨済宗妙心寺派 乾徳山 恵林寺

■協賛    合同会社和の杜

■内容

12:30~    開場。呈茶

13:30~    開会

13:40~14:40   対談「禅と書と」

14:50~     「喫茶去」奉納

15:00~    記念撮影、閉会

※12:30~13:00までにお越しいただいた方に呈茶をご用意しております。


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