「禅と書と」
~対談 ウィリアム・リード×古川周賢老大師~
無事イベントが終了いたしました。お越しいただいた皆様、ありがとうございます。
まずは、当日は想定していた倍以上の方々に足をお運びいただき大盛況となりましたこと感謝申し上げます。
また、多々不行き届きもありご迷惑等おかけしましたこと、この場を借りお詫びしますとともに、サポートしてくださった恵林寺の皆様、お手伝いくださった皆様のお力添えのおかげで無事に終えることができました。
心より御礼申し上げます。
本当にありがとうございました。
※ウィリアム・リード先生の書、『喫茶去』を奉納に際し決まりました今回の夢の対談。
”「禅と書と」というテーマのもと『喫茶去』という切り口から
「書と墨蹟」その境目を模索するような対談”
気軽な雰囲気で掛けられることもある「喫茶去」。
その真なる部分は奥深い洞窟のよう、、
リード先生と老大師は、お互いに呵呵大笑しながら、
颯爽と洞窟の奥へ奥へと歩みを進めていく、、
そんな対談でした。。
そう、今回のために呈茶を準備していただいた前嶋宗州先生からもコメントいただきました。(和の杜講師)
リード先生の、常に新たなアイディアが泉のごとく湧き出る様や、柔軟な物事のとらえ方などについて、古川周賢老大師により鋭利な分析と禅的解釈がなされ、会場にいた多くの方々へも何らかの気づきをもたらしたのではないかと思います。
対談は「喫茶去」を書いた際の状況からお話しを始めててくださいました。
その日は初おろしの大きな筆と、初めての大きな西嶋手すき和紙を使ったパフォーマンス。
初めて使う大きな紙と、筆、という緊張感に、さらに失敗ができないという緊張が重なった状況のなか、動揺するでもなく、また自分で筆をコントロールするでもなく、「紙に気脈を聞きながらゆっくりと書いた」と教えてくれました。
リード先生が書を書いたのか、それとも
筆がリード先生を使い書いたのか・・
古川老大師はすぐさま、"先生が書を書いたのか。それとも筆が先生を使い書いたのか"そんな問いかけをしました。
先生は悩みながらも「ただ言えるのは自分で書いている感覚はなく、一連の動きを見ているような感覚。その時の場や人、物がコラボレーションした」と。
そのような感覚を体験したことがない私には考えが及ばないのですが、リード先生の底知れぬ研ぎ澄まされた精神をを感じられた一幕でした。
そんなやり取りから、古川老大師は岡倉天心の『茶の本』の話をしてくださいました。
誰にも鳴らすことができない弾き手を選ぶ琴を、伯牙(はくが)という琴の名手は奏でることができた。そんな伯牙に成功の秘訣を尋ねると
「ほかの人々は自己の事ばかり歌ったから失敗したのである。私は琴にその楽想を選ぶことを任せて、琴が伯牙か、伯牙が琴か、ほんとうに自分にもわからなかった。」と彼は答えた。
~琴ならし~
岡倉天心の『茶の本』で自他一体の境地を「芸術鑑賞の極意」としてこの話をあげています。
琴が鳴りたいように弾き、演奏しているうちに琴と伯牙は一体となり「琴が伯牙か、伯牙が琴か自分でもわからない」という境地に至る。
伯牙とリード先生は同じような境地に至り、私たちには分かり得ない、その時その時にリード先生が心で感じた「何か」が素晴らしい作品を生み出していくのかもしれません。
さらに古川老大師は、「今回のイベントも様々なピースが合わさって実現した。そもそも書道パフォーマンスをしなければ奉納式典を行うこともなかった。大きな紙を手すき和紙職人の笠井さんが漉いたことがきっかけだったのか、大きな筆がきっかけだったのか、どんなきっかけかは分からないが、紙や筆、すべてのピースが一つでもかけていたら書道パフォーマンスも、今回の対談も、生まれなかった」と。
これこそまさに"serendipty(セレンディピティ)"
リード先生も「僕の人生を一言で表すならserendiptyの連続である」と。
今回の対談イベントも素敵な偶然が幾重にも幾重にも重なりあい、そして実現されました。
参加くださいました皆様にも、イベントを通して、偶然の出会い、偶然の気づき、をなにかしら感じていただけたのなら幸いです。
:今回の対談動画を何かしらの方法でご覧いただきたいと考えております。
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