ペンとノートを買う

2024.12.11

どんな時も、私はまず手書きでノートに向かう。
デジタルツールがいくら便利だとわかっていても、最初の一歩はペンを握ることから始める。
プレゼン資料であろうと、社内提案書であろうと、まずはペンと紙だ。

手書きの線や文字がノートに広がる様子を眺めていると、アイデアが次々と湧いてくる。
それがたとえ雑然としていても、なぜかデジタルで一歩目を踏み出すより、心地よく思考を展開できるのだ。

私の性格だろうか。枠組みや制約を嫌う天邪鬼な一面が影響しているのだろう。
そして、もう一つ。私は文房具が好きなのだ。
新しいペンやノートを手に取るだけで心が踊る。
道具を揃える、その小さな儀式が、私の創作の原動力になっているのかもしれない。


最近では、私を後押ししてくれる研究も増えてきた。
プリンストン大学のパム・ミューラー博士とUCLAのダニエル・オッペンハイマー博士の研究によれば、
手書きでノートを取った学生は、タイピングでノートを取った学生よりも、情報を深く理解し、記憶にも長く留められるという。
手書きは、単なる記録の行為に留まらず、脳全体に負荷を与え、理解を深め、創造的な思考を促すのだそうだ。


私が手書きに魅了されるのは、その自由さゆえだろう。
コンピュータの画面上では、フォントやフォーマットに縛られてしまう。
けれど、紙の上では、線がはみ出そうが、文字が歪もうが、何も問題はない。
自分の思考をそのまま描き出せる場所、それが紙の上だ。
アイデアが形になり始めるとき、その不完全さがかえってクリエイティブな力を引き出してくれる。
そして、余白も語り掛けてくる。余白が持つ無限の力。デジタル画面には決して再現できない空間の豊かさがそこにある。

2024年10月にナショナルジオグラフィックに掲載された「手書きの科学」という記事も興味深い。
この記事は、手書きがいかに脳全体を活性化させ、記憶力や集中力を高めるかについて科学的に掘り下げている。
もし興味があれば、ぜひ読んでみてほしい。


手書きの力が際立つのは、感情を伝える場面だ。
株式会社NTTデータ経営研究所の報告によれば、手書きの文章は受け手に「時間と手間をかけてくれている」という印象を与えるという。
その手間がポジティブな印象をもたらし、書き手の人となりを深く感じさせるのだ。
筆圧や文字の形、その不均一さにさえ、書き手の感情が宿る。
手書きの温かみは、現代のデジタル社会の中で、むしろ輝きを増しているように思える。


セミナーで書字を取り入れる理由もここにある。
筆を握り、和紙に文字を書くという行為は、単なる「知識」の提供を超えた体験を参加者に与えるからだ。

例えば先日行ったセミナーのテーマ、「率先垂範」という言葉を書くとき。
墨を磨る音、柔らかな筆を和紙に滑らせる感触、そして滲む墨の繊細な動き。
それら全てが、言葉に込められた重みを再認識させる。
このプロセスを通じて、文字の奥にある精神を心と体で感じ取る時間が生まれる。


手書きは単なる記録方法ではない。
それは、私たちの脳と心、そして他者とのつながりを再発見するための「道具」だ。
次にノートを開くとき、その温かさがどれほどの可能性を秘めているか、少しだけ思いを巡らせてみてほしい。
それは、ペン先から始まる小さな革命かもしれないのだから。


さて、次の一歩を踏み出す準備をしよう。
帰りがけにペンとノートを探しに文具店へ。



その瞬間から、あなたの革命が始まるのだ。

観光ではなく「拓旅」「啓旅」という新しい旅の提案

2024.09.27

“日本の「旅」を再定義する”

単なる名所を巡るだけの「観光」(sightseeing/tourism/travel/trip/jouraney)の旅ではなく、リベラルアーツの視点で日本文化の経糸を繋ぐ新しい価値観を宿した旅を提案したい。
旅、旅行、観光という言葉では説明しきれない旅概念のため、「拓旅」「啓旅」という新しい言葉を以て、日本への旅を再定義したい。

「拓旅/takuryo」とは・・・

「場」を拓く旅。観光地の名所を「点」で巡るのではなく、その「場」の持つ背景、歴史、信仰、感性に基づく旅を提案する。例えば、「富士山」を旅したいとなれば、「拓旅」ではいきなり直接に「富士山」が見える場所には行かない。
「富士山」より遠く北に鎮座する霊峰・金峰山の麓に先ず向い、遠くからの富士山を拝む。これは約1200年前のいにしえの「富士山」は噴火を繰り返しており、遠く北に鎮座する霊峰・金峰山より富士を拝み祀っていたという歴史に基づく思考である。「富士山」の持つ背景、歴史、信仰、感性に基づき「場」を繋ぎ、徐々に富士山へ近づき、最後は「富士山」の懐へ入っていく旅である。
このような旅により、ただ「富士山」を見るだけでなく、本質的な意味での「富士山」との出会いとなる。単なる「観光」と「拓旅」の旅の解像度の違いは歴然たるものがある。

「啓旅/keiryo」とは・・・

「人」をたずねる旅。自己の啓く旅。
拓旅が「場」の概念とすれば、啓旅は「人」の経糸を求める旅となる。
「人」とは、例えば歴史上の人物などを想定する。
現状の観光地を大別すれば「場」に基づく地か、「人」に基づく地に分けられる。
「人」に軸をおいた旅を「啓旅」と再定義したい。
例えば、戦国の英傑「武田信玄」を啓旅の中心に据えたとする。
一般的な観光といえば、武田神社やお墓のある恵林寺、関心の高い方でも甲府五山(円光院、長禅寺、東光寺、能成寺、法 泉寺)をお参りするくらいである。
「啓旅」では、信玄公の心の拠り所や信仰などの経糸を尊重する。甲斐源氏の安田義定への尊崇や滋賀県園城寺、長野県諏訪への信仰なども見逃せない。信玄公の経糸にふさわしい旅を設計するには山梨県だけでは難しく、有機的に各地を繋ぐ必要がある。

「拓旅/takuryo」と「啓旅/keiryo」は、明確に区分すべき類のものではなく、それぞれが複雑に関係し合い、その旅の質(クオリティ)を純化する。
単なる「旅、旅行、観光」ではない、経糸の通った本質的な日本の旅である「拓旅」「啓旅」という新しい価値観の提案でもある。

垂井の泉

2020.08.28

垂井の泉(岐阜県不破郡垂井町泉)

休むことなく長く湧き続け、京から東国へ、東国から京へ。

旅する人々を癒し続けてきた泉がある。

腰をおろし、一呼吸。

そこで皆、筆を走らせた。

昔見し たる井の水は かはらねど うつれる影ぞ 年をへにける (1000年代)
藤原隆経

あさはかに 心なかけそ 玉簾 たる井の水に 袖も濡れなむ(1400年代)
一条兼良

葱白く 洗いあげたる 寒さかな (1600年代)
松尾芭蕉

雨の日は傘になり、照りつける陽には木陰を作って旅人を迎えた。
大けやきは2015年の台風で倒れてしまったそうだ。
それでも泉は枯れない。
句のたしなみがあるわけではないが私も筆を走らせてみた

大けやき

朽ちはてるとも

秋日のほつれつくろう

垂井の泉

恒来詠む

うまれつきをいかしきる、明日につながる法華の太鼓 ~SHIVER公演、 バレエ×和太鼓~

2020.08.12

先日和の杜で講師をお願いしている佐藤健作さんの公演に出かけた。
戸隠の道場‘是色館’に。

久々のライブ鑑賞だ。
普段からバレエやミュージカルが苦手な私にとってバレエ鑑賞は初めてだ。
(実を言うとあまり好きではなかった。申し訳ない)
当然バレエに関する造詣を持ち合わせないので感性だけの感想を少々。

ゆっくりとウォーミングアップから始まり本番に。
いよいよパフォーマンスが繰り広げられる。
あっ。
目の前を高く舞い、疾風のステップで遠ざかる
二山治雄さんの姿は選ばれた人のそのものであった。
走るためのウサイン・ボルトであり
ゴールするためのリオネル・メッシだ。

自在に体を操る小池ミモザさん、高瀬譜希子さん、東真帆さんも同様だ。
和の杜のセミナーテーマの一つである
‘心が変われば体が変わる、体が変われば心が変わる’
について、自在に体を操る皆さんにゆっくり話を伺いたいと思った。

そして。
‘うまれつきをいかしきる’という言葉が浮かんだ。
平仮名で浮かんだその言葉は二つに枝分かれした。
‘生まれつきを活かしきる’
‘生まれつきを生かしきる’
凡庸な私は前者で、大したことない能力を食べていく為に使う。四苦八苦して。

生かし切るとはそもそもその職業に選ばれた人々の生だと思う。
ただ座るために座ることが自然と出来てしまう生。

バレエ指導者に恵まれたエリアに生まれてくる。
いずれ様々な環境がその生まれつきを生かし切れるように動的につながっていく。

やはり選ばれているのだ。
佐藤さんと和太鼓。
(もちろん驚くほどの努力もしているはずだが。)

高鳴る和太鼓の響きに、大きな感動でフィナーレを迎える。

この大きな感動はやはり目の前で観てこそ味わえる。
社会の状況は厳しくそれを許容しないかもしれないが、
出来る限りの防疫対策をした上で、是非観ていただきたい。

法華の太鼓
日蓮宗ではだんだん物事がよくなることを法華の太鼓と言うらしい。
佐藤健作さんの和太鼓は、落ち込んだ気分を晴れた場所まで導いてくれる。
その空気感は生で味わってこそ。

それでは今回はここまで。

彷徨いの世、たまには俳句でも。

2020.05.11

カーラジオから俳句を学ぶ番組が聞こえて来た。
何やら「しょうもんじってつ(蕉門十哲)*」の俳人たちの作品紹介のようだ。
俳句について知っているのは五七五で構成される、季語がある程度のことだ。
無知をかみしめながら「俳句」を辞書で引いてみた。
*蕉門十哲:松尾芭蕉の弟子の中で、特に優れた高弟10人を指す語。


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:引用 広辞苑より
俳句 はい‐く【俳句】
①俳諧はいかいの句。こっけいな句。
②五・七・五の17音を定型とする短い詩。
連歌の発句ほっくの形式を継承したもので、季題や切字きれじをよみ込むのをならいとする。
明治中期、正岡子規の俳諧革新運動以後に広まった呼称であるが、江戸時代以前の俳諧の発句を含めて呼ぶこともある。
短歌と共に日本の短詩型文学の二潮流。定型・季題を否定する主張もある。

いきなり横道にそれるが、芭蕉と聞いて思い出したのは、大昔に読んだ「ちはやふる奥の細道」(小林信彦著)と言う作品だ。
パロディ作品が苦手な人もいるだろうが、なかなか面白かった。興味があればお暇なときに。

さて話題を俳句に戻して。
規則から離れて自由律の俳人、尾崎放哉(1885~1926)はどうだろう。
作品を少々。

  ねそべつて書いて居る手紙を鶏に覗かれる

  犬よちぎれるほど尾をふつてくれる

  酒もうる煙草もうる店となじみになつた

  昼の蚊たたいて古新聞よんで 

  入れものが無い両手で受ける

何という事もなく寂しく。
晩年は小豆島に暮らし海が好きだったと言う。自然は放哉を嫌うことが無かったようだ。
青い海の波音に送られながら逝ったことだろう。

  海が少し見える小さい窓一つもつ
  春の山のうしろから烟が出だした

もう一人同じ師を持つ同時代の俳人、種田山頭火(1882~1940)の作品も。
  

  分け入つても分け入つても青い山

  この旅、果もない旅のつくつくぼうし

  こころつかれて山が海がうつくしすぎる

  どうしてもねむれないよるの爪を切る

  まつすぐな道でさみしい

山頭火の日記を青空文庫で見つけた。
句集くらいしか見たことが無かったからちょっと読ませてもらう。
(青空文庫ボランティアの皆さん、ありがとうございます)
真剣かつ深刻であり滑稽でもある日記を読み続けると、あっという間に時が過ぎ夜更けとなった。
以下、日記から。

・朝酒と朝湯の礼賛
『朝酒はほんたうにうまい、一滴一杯が五臓六腑にしみわたるやうである。』

『朝湯朝酒、うらゝかな。ナマケモノであることをひし/\感じる。一人であることのよろしさ。』

・酒に飲まれる苦悩
~私は酒席に於て最も強く自己の矛盾を意識する、自我の分裂、内部の破綻をまざまざと見せつけられる。
酔いたいと思う私と酔うまいとする私とが、火と水とが叫ぶように、また神と悪魔とが戦うように、
私の腹のどん底で噛み合い押し合い啀いがみ合うている。
そして最後には、私の肉は虐げられ私の魂は泣き濡れて、遣瀬ない悪夢に沈んでしまうのである。~

今日はちょっとで止めておこうと思っても結局泥酔しちゃうんだよね。
その程度にリラックスして生きることが出来ないものか。

・行乞 偽僧侶?の托鉢生活に疲弊して
『私は労れた。歩くことにも労れたが、それよりも行乞の矛盾を繰り返すことに労れた。
袈裟のかげに隠れる、嘘の経文を読む、貰いの技巧を弄する、――応供の資格なくして供養を受ける苦脳には堪えきれなくなったのである。』

青年、壮年、初老と解決されることが無い苦悩を背負って。
子供時代の体験は解決されることなく死に向かっていく。
大酒は緩慢な自殺と言えるか。
いや。
ただの酒好きとしておこう。

・俳句作りに関する1節
『感動なくして制作するなかれ。ホントウの句は下手でもよろしいが、ウソの句は上手でも駄目。
多作寡作は素質により、その場その時の事情により、慣習によるでせう。句作より前に詩精神の涵養が大切。』

詩、俳句つくりは真正面からがっぷりよつで。

・死について
『私の念願は二つ。ただ二つある。ほんとうの自分の句を作りあげることがその一つ。
そして他の一つはころり往生である。病んでも長く苦しまないで、あれこれと厄介をかけないで、めでたい死を遂げたいのである。
――私は心臓麻痺か脳溢血で無造作に往生すると信じている。』

不器用でうまく生きられないけど、終始自己と向き合って彷徨い苦悩の中に人生を終えた。
望み通り最後は脳溢血で『コロリ往生』。

生涯そのものが俳句を巡る壮絶な旅。

  野ざらしを心に風のしむ身哉 (芭蕉)

放哉も山頭火も酒におぼれるダメおやじ。
純粋ゆえに経済活動は苦手。
はた目には愛すべき人物なのだが、家族は大迷惑。
まあ人間それほどうまく生き抜けない。

ここまで書き進んで、俳句なんて作ったことないが、ちょっと遊んでみようと思った。
血を吐く思いで句を吐き出した二人には申し訳ないが、思いついた句で遊ばせてもろうか。
自由律だし。体裁も出来栄えもなし。

  

  こんなよい月を一人で見て寝る (放哉)

  独りにも照らす月ある (放哉に和して)

  せきをしてもひとり (放哉)

  せきこんで気兼ねなきひとり (放哉に和して)

(自宅にて飼い犬の死に)

  コロリ往生する犬見送る

  禅寺で経読まれる犬

  卒塔婆にもカタカナの名

  生まれ変わりたどり着く犬の映画あり

  骨うまる犬の領地にトマト植え

  うっかり遠吠えをまねてみる

(ステイホームの今)
  ひとりごとにひとりごとかぶせる

  ころなの休日長い午後をしる

  人、あつまらないとはじまらない縁、日

やり始めてみるとなかなか面白い。自己満足に溺れながら止まらなくなってきた。
自由に思った通り出力すれば良いだろう。(違うかな)
ステイホーム、こんな時には家族で俳句を楽しむのもよいのではないか。
長い午後を家族の句会で。

最後に青空文庫から山頭火の「物を大切にする心」をそっくり引用したい。
いつもシンプルにナイーブに生きたいと願った彼が、その通り生きた証として。
(下記の山頭火四国巡礼は四十六歳位と思われる)

———————————————————————————————————–
物を大切にする心
種田山頭火

物を大切にする心はいのちをはぐくみそだてる温床である。
それはおのずから、神と偕ともにある世界、仏に融け入る境地へみちびく。

先年、四国霊場を行乞巡拝したとき、私はゆくりなくHという老遍路さんと道づれになった。
彼はいわゆる苦労人で、職業遍路(信心遍路に対して斯く呼ばれる)としては身心共に卑しくなかった。
いかなる動機でそういう境涯に落ちたかは彼自身も語らなかったし私からも訊ねなかった。
彼は数回目の巡拝で、四国の地理にも事情にも詳しかった。
もらいの多少、行程の緩急、宿の善悪、いろいろの点で私は教えられた。
二人は毎日あとになりさきになって歩いた。毎夜おなじ宿に泊って膳を共にし床を並べて親しんだ。
阿波――土佐――伊予路を辿りつつあった或る日、私たちは路傍の石に腰かけて休んだ。
彼も私も煙草入を取り出して世間話に連日の疲労も忘れていたが、ふと気づくと、彼はやたらにマッチを摺っている。
一服一本二本或は五本六本である!

――ずいぶんマッチを使いますね。

――ええ、マッチばかり貰って、たまってしようがない。売ったっていくらにもならないし、こうして減らすんです。

彼の返事を聞いて私は嫌な気がした。

彼の信心が本物でないことを知り、同行に値いしないことが解り、
彼に対して厭悪と憤懣との感情が湧き立ったけれど、私はそれをぐっと抑えつけて黙っていた。
詰なじったとて聞き入れるような彼ではなかったし、私としても説法するほどの自信を持っていなかった。
それから数日間、気まずい思いを抱きながら連れ立っていたが、どうにもこうにも堪えきれなくなり、
それとなく離ればなれになってしまったのである。

その後、彼はどうなったであろうか、まだ生きているだろうか、それとも死んでしまったろうか、
私は何かにつけて彼を想い出し彼の幸福を祈っているが、彼が悔い改めないかぎり、彼の末路の不幸は疑えないのである。
マッチ一本を大切にする心は太陽の恩恵を味解する。日光のありがたさを味解する人は一本のマッチでも粗末にはしない。

S夫人はインテリ女性であった。社交もうまく家政もまずくなかった。
一見して申分のないマダムであったけれど、惜むらくは貧乏の洗礼を受けていなかった。
とあるゆうべ、私はその家庭で意外な光景を見せつけられた。
――洗濯か何かする女中が水道の栓をあけっぱなしにしているのである。
水はとうとうとして溢れ流れる。文字通りの浪費である。それを知らぬ顔で夫人は澄ましこんでいるのである。
――女中の無智は憐むべし、夫人の横着は憎むべし、水の尊さ、勿体なさ……気の弱い私は何ともいえないでその場を立ち去った。
彼女もまた罰あたりである。彼女は物のねうちを知らない。貨幣価値しか知らない。
大粒のダイアモンドといえども握飯一つに如しかない場合があることを知らない。
大乗的見地からいえば、一切は不増不減であり、不生不滅である。浪費も節約もなく、有用も無駄もない。
だが、人間として浪費は許されない。人間社会に於ては無駄を無くしなければならない。
物の価値を尊び人の勤労を敬まわなければならないのである。
常時非常時に拘らず、貴賤貧富を問わず、私たちの生活態度は斯くあるべきであり斯くあらざるを得ない。
物そのもののねうち、それを味うことが生きることである。
物そのものがその徳性を発揮するところ、そこが仏性現前の境地である。
物の徳性を高揚せしめること、そのことが人間のつとめである。
私は臆面もなくH老人を責めS夫人を責めて饒舌であり過ぎた。
それはすべて私自身に向って説いて聞かせる言葉に外ならない。
———————————————————————————————————————-

(「広島逓友」昭和十三年九月)

今こそ‘面白きこともなき世を面白く

2020.04.30

モノ、サービスが加速度的に溢れる現在。
これらを受け入れるために自分自身をどんどんカラにしていった。
その空間にモノとサービスが隙間なく入り込む。
無尽蔵に沸いてきて、永久に与えられ続けると思い込んでいた。
ところが未知の疫病が襲ってきた。
過去とは比べ物にならない影響力で世界を席巻している。
そして今日、思い込みの日常が失われた。



「おもしろきこともなき世をおもしろく すみなすものは心なりけり」



唐突に話が変わるようだが、今日のテーマの句だ。
ご存じの通り高杉晋作の辞世だ。(と言われている)
短い人生を圧倒的な密度で駆け抜けた。
‘劇物の師’松陰の沸き立つ魂を受け継ぎ、雷電の如く、風雨の如しと評された。
辞世の解釈は様々あるが、私はこう理解している。

どんな事にだって楽しみは見い出せる。
病に苛まれていても、苦難にあっても、心の作り方えさえしっかりしていれば
世の中を楽しく生き抜けるんだ。

今自由を奪われて苦しんでいる人々の心の作り方に大きな示唆を与えてくれる句になるだろう。
疫病は多くの死者を出す憎むべきものだが、自分自身を見直す良い機会にもなると思う。
空っぽになった自身を見直す。

モノとサービスを与えられる自分からあらゆることに楽しみを見いだせる心づくりを。

モノとサービスを提供する側も、利益至上主義から離れる良い機会だろう。


ところで、彼の人生に大きな影響を与えたのは、松陰のほかには天然痘があったと思う。
現代では種痘のおかげで死に至る人はいないが、
彼の時代は、死亡率七割とも言われる恐ろしい疫病だった。
(その後すぐに種痘が持ち込まれるが)
これに十歳くらいで罹患し、運よく生き延びた。
生死、人生に対する考え方が、新しく力強く作られたはずだ。
その後の彼の人生は、多くの人が知る通り。


固執せず、広い視野を持ち、常に柔軟にアップデート。
藩からの預かり金で、ちゃっかり遊興もご愛敬。
一度決断すれば素早く徹底的に。
三十年に満たぬ人生に春夏秋冬。

おもしろきことも無き世を存分におもしろく生きた。


コロナ禍の影響は年初の想像を大幅に上回っている。
延期したオリンピックの開催も危ういだろう。
そんな時代を生き抜く為に、今の時間を有意義に使いたい。
晋作の精神に学んで。

浮上がる歴史

2020.03.18

旅先でふと目にとまる石碑。
書のたしなみもないし、まして古文書を読む力などもない。
風化しつつある文字はただの風景となって通り過ぎていく。

先日拓本を取る現場に立ち会わせていただいた。その過程を見るのは初めてだ。

水を打って宣紙を貼る。
同じように水を打っても上部と下部では乾き方が違う。貼った宣紙の下部には時間とともに水が垂れてくる。
計算しつつ仕事を進める。

種類の違う刷毛を巧みに使い、
空気が入らないよう丁寧に貼り付ける。

乾き具合を見ながら墨を打つ。
多くの道具を使い分けながら仕事は進む。

原状
拓本後

拓本という技術が過去を明らかにする。

芸術としてその書体を復元する。
埋もれてしまった歴史を保全する。
単に拓本作品としてそこに存在する。

宣紙の風合いに取り手のリズムで墨が広がり、
白く浮上った文字からは音楽が聞こえてくる。
オリジナルの石碑から一つの独立した作品として完結する。

眺めているとその内容を知りたくなる。

そして悲しい歴史に触れることになった。
経緯などを調べていくと憤りとやるせない気持ちが並走して溢れてきた。
国家、政治の渦に巻き込まれて、犠牲になるのはいつも市民だ。

私的な碑であるのでこれ以上の言及はせずにこれで終わりにしたい。

いずれにしても拓本の持つ可能性に気が付いた有意義な一日だった。

日野楠雄さん、ありがとうございました


:日野楠雄(Nanyu HINO)  
1961年山形県生まれ。専門は文房四宝・拓本研究。
大東文化大学・國學院大學非常勤講師。
日本拓本社代表。
筆墨硯紙及び拓本を連携させ並行して研究・調査する立場をとっている。
和紙文化研究会所属。
「和紙における墨色の変化」「和紙の拓本利用」「和紙に使う筆」などをテーマに活動。

「天才に天職」 ~その壱~

2020.03.10

ある職業が要求する‘すべての要素’を持って生まれ、‘その職業に就き’あくなき努力を重ね、
並ぶことのない実績を積み上げる。

神に選ばれ、職業に選ばれる。

天才に天職。

時にそんな人物が生まれてくる。
彼はイチローと言う登録名で野球界にその存在を知らしめた。
抜群なセンスと華奢な体でメジャーリーグに渡った。

筋骨隆々のパワータイプがフルスイングでホームランを打つ。
2m近い大男が160㎞を超えるストレートで三振を獲る。
そんな欧米人が持つベースボールの価値観とは全く違った発想で結果を出し、そして人々を魅了した。

そのアメリカでの実績と軌跡からイチロー氏を『野球道の始祖』と言っていいのではないか。
私は勝手にそう思っている。
イチロー氏について研究したこともなく野球もど素人の私だが、勝手に考察しイチロー的野球道を分析してみたい。

その道がたどり着く場所は。

相手チームより1点だけ多く得点し試合を終了させるために、自分のやるべきこと、やれることをやる。
そのためにまずは、己をしっかりと深く知る。
分析した結果、その時その時に必要なことを実践する。
それを淡々とやり続ける。
これが私の考える、イチロー的野球道の基礎だ。

そしてアメリカへ渡ったことにより、一層際立ったのがイチロー氏の背景にある『日本的なもの』だ。
バッターボックスでの立ち姿はまさに「侍」。

美しかった。

また、道具の扱い方は職人的で実に丁寧だ。
使い方も徹底的に研究したであろう。

昔から日本と欧米では、道具に対するアプローチが大きく違う。
欧米では、まず道具を合理的に良くしていく。
そう。使いやすいように。

ところが日本人は多少使いづらくても、使い方や技術を徹底的に研究し磨いていく。ちょっと合理性に欠ける道具でも、だ。

それが「道」に通じていく。
イチロー氏の日本的なもの。

例えばバットの使い方。
バットをテニスのラケットと同様のレベルで使いこなす。
バットコントロールは、テニスのプレースメントレベルで考えていたと思う。

面の広いラケットと同様にバットを使いこなし、テニスと同じような細かいプレースメントを野球に持ち込んだのだ。(きっと)
バットの芯に当てるだけではなく、より多くのポイントを意識して利用する使い方だ。
左中間、二遊間といったレベルではなく、かなりピンポイントな狙いだ。
そしてそのバッティングは、次の動作や走塁を見据えたプレースメントの完成と位置付けていたと思う。

また、いつも戦略的で想定するプレーの確率を精査していた。
どうしたらよい結果を生むのか。
最適な自己の対応は何か。

爽快なヒットを狙わずに、わざと詰まらせて脚でファーストに生きる。
守備のリズムを崩すことまで考慮していたのだろう。
なんとも相手にとって嫌な選手である。
すべてのプレーがそのイチロー的野球道に基づくアウトプットであっただろう。

ずいぶんと長く楽しませてもらった。
時には野球道から外れた、エンターテインメント的なサービスも忘れずに。

勝手な分析で、本人はさぞかし不満かもしれないので直接会って話が聞ければ嬉しいのだが。

そうだ。

現役に復帰してくれないかなあ。

喫茶去に至る

2020.02.14

「禅と書」喫茶子をめぐる対談 ウィリアム・リード×古川賢周老大師

”コラム:喫茶去に至る”
合同会社和の杜代表

 

西島の笠井伸二さんが漉いた大判の和紙に、どんな言葉を書くか思案していた。
そこに「喫茶去」という禅語が目に留まった。
これは座りが良さそうだ。紙、筆どちらのサイズにもちょうどよい。
紙の質感にも合うだろう。

ー趙州喫茶去 引用ー
師問二新到。上座曾到此間否。
云不曾到。
師云。
「喫茶去」
又問。那一人曾到此間否。
云曾到。
師云。
「喫茶去」
院主問。
和尚不曾到教伊喫茶去即且置。
曾到為什麼教伊喫茶去。
師云院主。
院主應諾。
師云。
「喫茶去」

市井の凡人は下記のように解釈してみた。

~至る、至らざる、無~

修行に初めて来た僧も、何度か来た僧も、長く務める僧であっても終わりに至ることが無い。終わったと思っても終わりではない。道は変遷し続く。寄せては返す波に時に乗り、時に逆らい、そして波は止むことはない。

たとえオリンピックで金メダルを取ったとしても、それは「至る」ではない。参加者との横の比較で金メダルを獲得したに過ぎず、自分自身における縦の比較ではまだまだ「至らざる」とも言える。

とはいえ、金メダルは取ったから。

 喫茶去。

 まあお茶でも飲んで次の一歩を始めましょう。

オリンピックで四度頂点に立った伊調馨さんはまだ現役を続けるという。

まさに喫茶去。

昨年、境内にて喫茶去を書くイベントを行った際に、古川老師が行った恵林寺講座、禅語の解説で一番に選んだテーマが「喫茶去」であったと知った。

従前に打ち合わせもせずに、書に「喫茶去」を選んだのは必然的偶然だなあと遠くに視線が行った。英単語では‘serendipity’ ‘synchronicity’がそんな意味である。

説明しようがない偶然に出会うことがある。

広く開かれた心を持っている人には、ほんのり幸せな偶然がたびたび訪れるのではないだろうか。そのただの偶然は時として得難い新しい価値を生み出すものなのだろう。

さて趙州(じょうしゅう)禅師(778年~897年)は唐代に生きた。

百二十年もの長き人生は、あくなき追及、終わりのない修行の精神が可能としたか。

六十歳で新たな修行の旅に出たという。

歳月にのまれずに日々を送るその姿勢は良い刺激を与えてくれる。

ちょうどこの時代、陸羽(りくう)(733年~804年)によって最古の茶書と言われる「茶経(ちゃきょう)」が書かれた。おかげで趙州禅師の時代の飲茶がどのようなものだったかを知ることができる。当時は乾燥、固形化された餅茶(せんちゃ)を粉にして煮出すお茶だったようだ。輸送を考慮した製法として餅茶状態が都合よかったとのこと。お茶は取り巻く環境によって次々と変化していく。

おかげで今日私たちはおいしいお茶が飲める。

お茶は徐福伝説の時代、すでに薬として入って来たかもしれないが、飲茶の習慣は遣隋使、または遣唐使により日本へ伝わったようだ。その後、栄西の「喫茶養生記(きっさようじょうき)」を経て、深く日本文化に浸透した。

ヨーロッパでは、東インド会社設立によりその幸せな瞬間は訪れた。

イギリスの医学博士ジョン・コークレイ・レットサムは、その歴史を「茶の博物誌」(1772年)にまとめている。偏見甚だしい記述もあるが、丁寧な解説と絵は、博物誌として一読の価値はある。

お茶に対して懐疑的な見方をする人々の間では、緑色は緑青を利用した着色などと風説が広まったことが書かれている。新しいものを受け入れるのにはそれなりの時間を要する。

また、お茶の輸入について、当初はオランダを通し日本からが主で、次第に中国に代わっていったとの記述がある。鎖国がなければイギリスの飲茶習慣は紅茶ではなく、抹茶や煎茶だったかもしれない。とかく文化も政治的な影響は避けられない。

西欧ではお茶の味と効能に焦点が当たり広まったが、日本では思想、哲学、精神性が加わって独自の発展を遂げていった。一般的に茶の湯は、珠光(じゅこう)、紹鷗(じょうおう)、利休を経て完成したといわれている。イギリス人がはじめてお茶を飲んだ時点で、既に文化芸術としてのお茶が完成していたのだ。これは世界に誇ってよいだろう。異文化圏の人々に「私たち」を伝えるのに最も良い道具が、茶の湯であることはすでに「茶の本」で岡倉天心が指し示している。

ところが現代の茶の湯は形式的、興行的で、成立期のような価値を生み出していないとの批判をたびたび目にする。それは致し方ない部分もあるだろう。

剣を枕に生き抜くことに必死な時代、茶室で膝附合わせた友が突然戦場の露と消える無常さをも栄養にして成立していくわび茶の世界を、現代に実現するのは不可能なのかもしれない。

とは言っても守るだけになった伝統はいつか忘れられてしまう。

やはり現在進行形でなければ。

さて。

禅、墨蹟(ぼくせき)、茶の湯を支える精神文化を、現代の視点で掘り下げる対談は、静を動とする端緒となるような示唆に富んだ話になるに違いない。

それでは、

喫茶去。


〈参考図書〉

「茶経(ちゃきょう)」・・茶経 全訳注(講談社)布目 潮フウ(ぬのめ ちょうふう) 著

「喫茶養生記」・・栄西 喫茶養生記(講談社)古田紹欽(ふるた しょうきん) 著

「茶の博物誌」・・茶の博物誌―茶樹と喫茶についての考察(講談社)

ジョン・コークレイ・レットサム 著  滝口明子 訳

「茶の本」・・・茶の本(岩波文庫)岡倉 覚三 著 村岡 博 訳

※このイベントは2022.02.22に終了いたしました。