小池藤五郎基胤博士の考証によれば、武田流花押のルーツは、武田信玄からさかのぼること400年前、源義家(八幡太郎)、源義綱(賀茂次郎)、源義光(新羅三郎)の三兄弟が育った河内国の源家の居住地「香炉峰の館」の典雅な公家様(くげよう)にたどり着く。
ちなみに、河内国古市郡壷井(大阪府羽曳野市壷井)を本拠地とする源家は、清和源氏の一流で「河内源氏」という。
一般的に武士で「源氏」という場合、この河内源氏の系統を指す。
義光の三男義清とその子清光が大治5(1130)年、常陸国武田郷(茨城県ひたちなか市武田)から甲斐国巨摩郡市河荘(山梨県西八代郡市川三郷町)に入り、甲斐源氏の始祖となる。
清光の長男(次男とも)信義は、保延6(1140)年、13歳のとき甲斐国巨摩郡武田荘(山梨県韮崎市神山町)の武田八幡宮で元服し、武田太郎信義と名を改め、同地を本管地とし、甲斐武田氏の始祖(甲斐武田家の初代)となる。
爾来、命脈は400年の星霜を経て、武田家16代当主武田信玄へと続く。
河内国の「香炉峰の館」を出た源家の花押も、甲斐国を包む富士山・鳳凰三山(ほうおうさんざん)・駒ヶ岳・八ヶ岳・金峰山(きんぷざん)の雄健な稜線と、北巨摩郡内の遊水地帯の複雑な流れなどが、花押の線となって加わり、平安朝の高雅な形体も薄らいで複雑な展開を見せていた。
そこで武田信玄は、信玄暗殺未遂事件を契機に花押所(かおうどころ)を制定し、その主宰を小池和泉守胤貞に命じた。
胤貞は、これまでの花押に、模倣・偽筆防止の秘策と一族郎党と共に生き抜くために易学に基づく術策を加えて、新形体の花押式「武田流花押」を確立させた。